ジャッジへの批判は何をもたらすか

※以下に記載されている内容は、私個人の見解であり、いかなる所属団体・組織等を代表するものではありません。

 

ジャッジへの批判は何をもたらすでしょうか。

 

・ジャッジ能力の向上

ジャッジが自らが至らなかった点を振り返り、ディベーターからフィードバックを得ることで、ジャッジ能力の向上に繋がります。いいことですね。

ただし、当然ながら建設的なフィードバックでなければ意味はありません。一方的に批判してくるような相手の話は聞きたくないでしょうし、メンタルヘルスの観点からも聞かないことが適切でしょう。

 

・コミュニティーとしての問題意識を高める

ジャッジングのスタイルなど、コミュニティー全体に共通する問題点があると感じていて、それを改善したいと思っている。素晴らしい志だと思います。ぜひ私も協力したいです。

ただし、当然ながら建設的な提案でなければ聞く耳を持つ人は極めて少ないでしょう。ジャッジを一方的に批判しているような発言内容であれば、残念ながら自然と共感も減るものだと思います。

 

・ジャッジ人口の減少

「間違った」ジャッジングやスコアリングをすると叩かれる、陰口を言われるような世界で、ジャッジを始めてみたい!と思うディベーターはどれだけいるでしょうか。ジャッジを公然と批判する先輩がいる世界の中でジャッジすることは、私だったら嫌です。

また、そのようなジャッジに対する態度を公にし続けることは、下級生に対しても悪影響を及ぼすことは言うまでもないでしょう。そのような環境の中では、ジャッジを批判することがある種普遍化してしまうように思います。

「『良い』ジャッジが少ない」と思うことは自由だと思いますが、それを発信する方法によっては、「良い」ジャッジが生まれる可能性を自らの手で阻んでしまう可能性があるのではないでしょうか。

第一、「正しい」ジャッジング・スコアリングを毎回することは不可能だと思います。機械でもない限り。ディベーターでは「スピーチ失敗した」ということがあるのに、ジャッジではそれが起こらないと断言することは無理があると思います。競ったラウンドであればなおさらです。

また、「正しい」「良い」に「」を付けているのは所詮「正しさ」「良さ」は相対的なものに過ぎないからです。勝敗やスコアリングに絶対的な基準が存在しないのにも関わらず、全員が全く同じ勝敗、全く同じスコアリングをすることは不可能に近いです。

 

・他人を傷つける

何を思うかは内心の自由ですし、飲み会などプライベートな場で何を言おうが関知できない範囲であればそれも自由です。自分も「どうせどこかの飲み会では批判されているんだろうな、見合っていないジャッジプライスを取りやがってとか言われたりして」とか思いながらジャッジはしています。

ただし、パブリックな場でそのような、特定性のある(大会に出場しており、ドローやタブを見れば、参加者が容易に誰のことを指しているか推測できると考えられるような情報を含む)非難をするような発言をすることは、擁護されるものではありません。Equityという制度は、そのように一方的に他人を傷つけることが起こらぬよう、防波堤として大きな役割を有しています。

もちろん、議論することは素晴らしいことです。ただ、「議論」であることを盾として、いかなる発言も許容される訳ではありません。自分の発言が他人からどう見えるのか、客観的に見て自分がどのような立場にいるのか、常に自覚し続ける必要があるのではないでしょうか。

「強い」から何を言ってもいい訳ではなく、「弱い」から何も言ってはいけない訳ではありません。ディベートは「強い」人の所有物ではありません。ディベーター全員の公共財です。 

 

【最後に】

私個人としては、この発信をきっかけとして、誰かを批判するような発言が行われることは望んでいませんし、個人的にも許容できません。結局のところ、それはジャッジに対する不適切な批判と同じ結末をもたらすのみです。

全員で共に手を取り合い、より良い未来への歩みを進めることこそが、私の強い願いです。